香穂子は扉を開けて、空港の展望デッキに出た。
大きく鳴り響く飛行機の金属音と、吹き付ける風に圧されながらも、デッキの先端を目指す。
出発ロビーで月森を見送ってすぐ、この場所に来た。
ここが一番空に、旅立つ月森に近い場所。
やはり、最後まで見届けていたいから・・・。
彼の乗っている飛行機はどれだろうかと、1つ1つ探しながら手すり沿いに移動していく。
「あった!」
白い機体にブルーの社名。同じくブルーの尾翼の中心に、翼を広げた鳥が描かれた黄色い丸模様。
間違いない。あの飛行機に月森は乗っている。
搭乗ゲートを離れた飛行機はゆっくりと、中央滑走路目指して移動している所だった。
白くペイントされた手すりを握りしめ、じっと飛行機の行方を見詰めた。
容赦なく照りつける強い夏の日差しが、滑走路と展望デッキを白く反射させている。
今の自分には眩しすぎる・・・そう思って思わず眼を細めた。
共に過ごしてきた思い出が多い分だけに、心の中まで干からびてしまいそうだから。
今は8月の頭、世間では夏休み真っ盛りといったところだろうか。
新学期が9月からという事もあり、事前の準備なども兼ねて1月程早めにドイツ入りするのだという。
卒業してからの4ヶ月間はあっという間だった。
最近では出発の準備や手続きやらで忙しい月森とは、なかなか会う時間が取れない日が続いていた。
入学に必要なドイツ語の語学力検定試験に、大学の入学試験、役所での出続きなどでドイツと日本を行ったり来たり。戻ってきても落ち着く時間がある訳もなく・・・。
「やっと会えたと思ったら、もう出発の日なんだもんね」
時の過ぎ去る早さの何と無情な事か。
ふっと自嘲ぎみに溜息が漏れた。
でも会えないわけでは無かった。
忙しい中に少しでも時間があれば連絡をくれるので、月森とは限られた中で逢瀬を重ねてきた。
思えば、出会ってからこの数ヶ月が一番、共に濃密な時を過ごしたのかもしれない。
本当は一緒に行きたかった・・・連れて行って欲しかった。
それは出来ないと事だと分かっているからこそ、余計に想いが募っていく。
技術的にも、今の自分ではとても世界に挑戦出来るものではない。
きっと脚を引っ張ってしまうだけ。
金銭的な面でも一般の平凡な家庭の収入では、長期の留学なんて不可能に近い。
ワーキングホリデーという線も考えたが、働きながら学べるほど音楽は生易しいものではないと、身に染みて分かっている。
『この手に夢を掴んで、必ず戻ってくる』
出発間際に強く抱きしめられた腕の中で聞いた、誓いの言葉。
今はその言葉だけで十分だよ。
その言葉だけで、確かに伝わった熱い想いだけで頑張れる・・・待っていられる。
蓮くんはドイツで、私は日本で音楽を続けていく。
歩む道は違うけれど、共に目指すものは同じ。
この空が繋がっているように、きっと私たちの心も繋がっていると思うから。
月森の乗った飛行機が、中興滑走路に到着したようだ。
急に鼓動が高まり、緊張が走る。
手すりを握る手にも、力が籠もった。祈りと、想いを込めて。
止まっていた機体が一気に走り出した。
音楽の頂点を目指すひたむきな姿そのままに、徐々にスピードを上げて真っ直ぐ滑走路をひた走る。
やがて浮き上がった機体は、大空へと羽ばたき天空へと駆けていった。
プロのヴァイオリニストという、月森自身の夢に向かって。
「・・・いってらっしゃい、蓮くん・・・・」
飛行機の見えなくなった空を見詰めていると、ポツリと手の平に暖かい滴が降り落ちてきた。
「あれ・・・雨かな?」
いや違う。止まることなく手のひらに降り注いでくる滴は、天からではなく自分の瞳から降り注いていた。
「・・・泣かないって決めてたのにっ・・・」
潤みはしたものの月森の前ではなんとか堪えていた涙が、今頃になって溢れてきた。
止めようと思っても、もう自分で止めることが出来ない。
香穂子は溢れ出る涙をそのままに嗚咽を漏らしながら、デッキの手すりにすがって泣き崩れた。
きっとこの先何度となく、こんな涙を流す日が来るのだろうか?
乾きかけた心を、今はこの涙で潤そう・・・。